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「神様にほめられたい」

Topic 愛

Scripture

 43わたしは父の代理として来たのに、あなたがたは喜んで迎えてはくれません。それどころか、自分の権威で来るほかの者は、手をたたいて迎えるのです。 44もっとも、あなたがたが信じられないのもむりはありません。互いにほめ合ったり、ほめられたりすることは喜んでも、ただ一人の神からほめていただくことには関心がないのですから。

ヨハネ5:43ー44 リビングバイブル訳

Observation

当時のユダヤ人指導者たちは、人からの「栄誉」「評判」を気にしていた傾向があった。周りがどう見ているのか?

これは当時のユダヤ人指導者だけではなく、今の時代を生きる僕もそうだし、多くの人がその傾向にある気がする。

認められたい。

その一心ゆえに、周りの目や声を気にしてしまう。

神様にどう見られているのか?

実はそれが最も僕らを承認してくれている。

Application

関根一夫先生が「いてくれてありがとう」という著書の中で、「機能論的人間観(成果承認的人間観)」と「存在論的人間観(存在承認的人間観)」について記されていた。

「機能論的人間観(成果承認的人間観)」は、人の能力、学力、技術など、すぐれた能力がある人を優れた人間として評価する考え方。

しかしこの観点で人を評価すると苦労される方がいる。それは、身体的に衰えを味わっている高齢者の方々がそうではないか。僕も介護で働いている時代、このことをとても考えさせられた。何かができなくなったら、価値がないのか。それではあまりにも悲しい。

一方で、「存在論的人間観(存在承認的人間観)」とはあなたがそこに生きているという存在そのものが尊いのだという考え方。あなたという存在はこの世に二つといない独特な、かけがえのない貴重な存在であることを認め、存在を喜ぶのが土台である。

だから、認知症患者さんに対して周りがどうしても苛立ちを感じてしまうのは、機能論的人間観に立ってしまうからではないだろうか。特に元気だった頃の相手を知っているとそのギャップに余計である。

人は、何で評価されるのか?

失敗や成功か?

何かできるからすごいのか?

できなかったらダメなのか?

周りの目をどうしても気にしてしまう。

認められたい。

だけど、そのひとり子の命さえ惜しまず僕らのためにイエス様を捧げられた神様の愛に出会うとき、初めて自分は受け入れられていると体験する。自分でいいんだと。

ただ唯一の神様に褒めていただきたい。

どうしても周りの人に認められようと比べたりしてしまうけれど、それゆえに大事な神様の大きな愛を見失わないようにしたい。

1、偉大な神様の愛に愛されている。アーメン!

2、神様の愛に帰っていこう

Prayer

神様、あなたの大きな愛に感謝します。

それを知って、受け取ってもなお、いまだに人から認められたい。そんな思いが強いです。でも、それを追い求めれば追い求めるほどに、あなたの愛を忘れがちです。

今、あなたの帰ります。

あなたに愛されている。感謝します。

イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

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