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Come and See

トピック:信仰

 

御言葉:

ナタナエルは彼に言った、「ナザレから、なんのよいものが出ようか」。ピリポは彼に言った、「きて見なさい」。 イエスはナタナエルが自分の方に来るのを見て、彼について言われた、「見よ、あの人こそ、ほんとうのイスラエル人である。その心には偽りがない」。 ナタナエルは言った、「どうしてわたしをご存じなのですか」。イエスは答えて言われた、「ピリポがあなたを呼ぶ前に、わたしはあなたが、いちじくの木の下にいるのを見た」。

ヨハネによる福音書 1:46-48

 

観察:

ヨハネの福音書の第1章には、さまざまな人物と、イエス様との出会いが書かれている。そこに出てくるナタナエル。聖書の中で彼のことはあまりくわしく書かれていないが、彼はイエス様の12弟子の1人となる。1章はそんなナタナエルの姿が書かれている貴重な章である。ナタナエルはどんな人物であったか?ここからわかることは、

 

ピリポの友達であったこと。
「救い主に会った!」という友人ピリポに対して、「ナザレから、なんのよいものが出ようか」とややひややかな感じであったということ。

 

けれど友人ピリポの「来て見なさい / Come and See」という言葉に、ナタナエルはついて行くことにしたのだった。ナタナエルは聖書に書かれている救い主に関する預言を知っていただろう。加えて、カナ出身のナタナエルにとって、ナザレの街は、自分の街の近くでよく知っている場所。そんなナザレから救い主は出ないし、それどころか、偉大な人など出ない、とナタナエルは思っていたのだ。でも彼は救い主がいるピリポが言うところへ、行って見てみることにした。そして彼はそこで救い主であるイエス様と出会い、イエス様との歩みを始めることとなる。その後、他の弟子たちと一緒にイエス様を裏切ってしまったけど、復活したイエス様に再会した最初の人々の一人となった。そして福音を宣べ伝える器として用いられたのだった。使徒ナタナエルの第一歩は、疑いや疑問の中からの、信仰による一歩から始まっている。

 

適用:
僕も時にナタナエルのように「こんなところから良いものが出るだろうか?」という思いをもってしまうことがある。状況を見極め、賢く選択をしていくことは大切なこと。けれど時にそれは、信仰による歩みの足枷になってしまうことがあるだろう。ナタナエルは、疑問や疑いを持つ者であった。けれど、自分の知識や常識で限界を決めるのではなく、その枠を超え、救い主のいるところへ行って見る、ということを選んだ。そして彼は主の働きに加えられた。僕が「来て、見なさい」と言われていることはなんだろうか?自分の考えをはるかに超えた方と歩むには、信仰が必要である。状況や常識ではなく、神様の「来て、見なさい」という声こそ聞くことができるように祈ろう。そして主に信頼し、安心していこう。神様がまず僕のことを知ってくださり、導いてくれるのだから。

 

祈り:
愛する天の父なる神様、今日もライフグループでみんなと一緒に御言葉を読み、互いのシェアから励ましあい、祈り合うことができるこの時間を感謝します。2020年、誰も予想だにしなかった新型コロナウイルスによる大きな問題が今も続いています。主よ、この中で困難や悲しみを抱えた方々が多くいます。あなたの慰めと支え、守りを祈ります。こんな問題の中から、良いものがでるだろうか?という心持ちになってしまうことがあります。赦してください。主よ、あなたの声を聞くことができますように。あなたの来なさい、というところに行って、見なさい、ということを見ることができますように。そしてあなたのしなさい、ということをしていくことができますように。いろんな常識、経験、知識があっても、それら全てを超えて働くあなたと共に歩むために、信仰によってこそ歩むことができますように。イエス様のお名前によって祈ります。アーメン

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