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始めから終わりまで変わらない

御言葉:とすると、信仰生活が聖霊によって始まったのに、どうして、律法を救いの条件とするのですか。

ガラテヤ人への手紙 3:3

観察:ガラテヤの教会にはユダヤ人のクリスチャンが多くいた。彼らは以前は神様の律法を守ることで、自分たちを神様の前にふさわしいものとしようと努力していた。でもそれでは希望がない。なぜなら人はいくら取り繕っても、頭の中で罪を犯し、口において、行いにおいて、日々罪を犯してしまう者だからだ。だからイエス様は来てくださった。僕たちの罪の結果を一身に引き受けてくださり、罪から贖ってくださるために来てくださった。ガラテヤの人たちもそれを信じ、喜んだ。でもしばらくしてそれは変わってしまった。誰かの言葉からだろうか、それとも昔の生き方からだろうか、ただイエス様のしてくださった十字架の贖いだけで神様の前に良いものとされていることに不安をもった。そして「やはり神様の前に良いものとされるには、行いがないと!」という生き方に戻ってしまった。またその考えを他の人にも当てがるようになってしまった。僕たちはそれを読んで、彼らの姿に「どうして?」と思うかもしれない。けれど、僕たちも彼らと同じようなところを通ることがある。

適用:

今日自分が神様に愛されていると自信を持って言えるだろうか?

今日神様の目に良いものとされていると自信を持って言えるだろうか?

そうでない時がある。なぜか?それは無条件の愛より、自分の行いや、他人の言葉によって、あたかもそれらが守れていないと自分がふさわしくないものなのだと考えてしまうからだ。

ある部分は確かに正しい。そう、自分は神様の前にふさわしくなんてない。けれど、イエス様はその世界を変えてくださった。神様の前にふさわしくないものが、ふさわしいものとされ、愛されていること、赦されていることを知ることができるようにしてくださった。

今もう一度自分や他の人の言葉や考えではなく、イエス様を思い巡らし、イエス様にこそ希望を置いていこう。ただただ恵みによって救われていること、そのことを神様に感謝し賛美を捧げよう。クリスチャンになって、その時間が長くなるほど、僕たちは”クリスチャン”らしくあろうとする。でもクリスチャンとはChrist Follower、すなわち、イエス様のなされたことを信じ、イエス様が言ってくださったことを信じるものである。それは最初から最後まで変わらない。愛されていること、赦しが与えられること、神様との永遠は、イエス様のうちにある。それは信仰によってのみ僕たちが受け取ることができるもの。それを得るために僕たちができる努力などひとつもない。これからも自分の心を確認しながら、神様の恵み、愛と赦しのGood Newsを知らない人たちへ神様の愛を伝えていこう。

祈り:神様、あなたの素晴らしい名前を賛美します!イエス様をこの地上に送ってくれて、イエス様によって僕をあなたの前に良いものとしてくださってありがとう!それを信じたのに、知っているのに、あたかも自分の努力が必要かのように生きてしまうことがあります。あなたの喜ばれることをしたいけれど、でもあなたに愛されていること、赦しが与えられるのは、イエス様の十字架があるから。いつもイエス様に戻ることを教えてください。そしてなにができてもなにができなくても、どこにいても何をしていても、あなたの愛がすべての人に注がれていることを、一人でも多くの人が知ることができますように。それは多くの人にとって驚くべきことでしょう。でもあなたはその驚くべきことをなさってくださった。心から感謝します。あなたの福音の希望がこの日本に広がっていくことを祈ります。イエス様のお名前によって祈ります。アーメン

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