No comments yet

名も知れぬ少女としもべの心から

御言葉: 2アラムはかつて略奪に出たとき、イスラエルの地から、ひとりの若い娘を捕らえて来ていた。彼女はナアマンの妻に仕えていたが、3その女主人に言った。「もし、ご主人さまがサマリヤにいる預言者のところに行かれたら、きっと、あの方がご主人さまのツァラアトを直してくださるでしょうに。

列王記 第二 6:2-3

13そのとき、彼のしもべたちが近づいて彼に言った。「わが父よ。あの預言者が、もしも、むずかしいことをあなたに命じたとしたら、あなたはきっとそれをなさったのではありませんか。ただ、彼はあなたに『身を洗って、きよくなりなさい』と言っただけではありませんか。”

列王記 第二 5:13

観察: アラムの王の将軍ナアマン、彼はツァラアトにかかっていた。そんなナアマンの妻に仕えている少女がいた。この少女はイスラエルから捕らえられた者であった。そしてナアマンの妻にエリシャに会いに行くならきっとその病を癒してくれるでしょう、と助言した。彼女は自分の境遇にも関わらず、アラムによって捕らえられてからも続けて、神様の存在を信じ、そしてエリシャを神様からの預言者として信じていた。反対に、イスラエルの王は自分に王の地位があっても、様々なものが他の人よりも多く与えられていても、ナアマンからの手紙を読んだ時、神様に頼ることも、エリシャの存在を思い出すこともしなかった。むしろ人間的な力の限界から、自分の状況を、「ナアマンの策略だ!!」と捉えてしまった。アラムの将軍ナアマンも初めはそうであった。エリシャに会った時、彼の期待していたことは、彼の考えることのできる最高の治療を受けられる、というものであった。けれどエリシャに言われたことは、大河でどころか、小さく汚いヨルダン川で身を洗うことだった。そして彼は怒って帰ってしまった。しかしその後、彼のしもべの助言があり、ナアマンは癒される。

適用: 僕はこのイスラエルの王やアラムの将軍ナアマンに自分を見るだろうか?それとも、この名を記されていないイスラエルから連れ去られた少女や、ナアマンのしもべに自分を見るだろうか?自分の人生に問題がやってきた時、また、他の人の人生に問題がやってきた時、神様を思い起こし、また神様にあって生きる信仰者を思い起こすだろうか?それができるかどうかは、自分の地位や境遇にかかっているのではない。自分自身の心によるのだ。今日それを名を知らない少女としもべから教えられた。
だから自分の人生に問題がある時に自分の心を見つめてみよう。そこにはナアマンやイスラエルの王の姿があるだろうか?それとも名のしれぬ少女としもべの姿があるだろうか?特に自分が、神様の子、神様に贖われた者などといった、神様からのアイデンティティ以外の者であることが強く意識される時、自分の考えや選択を間違えてしまうことがあることに気をつけよう。そしてそれを助けてくれるのが、聖書の御言葉である。聖書の御言葉が僕の心を鏡の様に写して見せてくれる。鏡をよく見て、「あれ?変なものが付いていた?!」と気づくことがある。気づかぬうちに自分の心がずれていること、変なものがついていることがあるのだ。神様に示してくださるよう祈り、そしてもし心がずれているなら悔い改めよう。そして神様に信頼し、信仰によって歩む時、どんな状況の中であったとしても、神様は僕を用いてくださり、僕の人生を通して神様の奇跡を起こし、アドナイ・シャマ、主はここにおられる、ということをこの地に知らせてくださる。

祈り: 神様、あなたの偉大な名前を賛美します。あなたはアドナイ・シャマという方。今日も僕と共にいてくださいます。けれど僕の心の目が盲目になってしまうことがあります。今日名もしれぬ少女としもべの心から教えられました。ありがとう!どうか彼らの様な、あなたを信じる心をいつも与えてください。自分の境遇、状況によって心の目が盲目にならないよう示してください。あなたを信じない者ではなく、信じ、救いを届けるものとしてください。イエス様のお名前によって祈ります。アーメン

Post a comment

%d bloggers like this: