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試練や困難自体が災いではない

御言葉:
“5異邦人とユダヤ人が彼らの指導者たちといっしょになって、使徒たちをはずかしめて、石打ちにしようと企てたとき、6ふたりはそれを知って、ルカオニヤの町であるルステラとデルベ、およびその付近の地方に難を避け、7そこで福音の宣教を続けた。”
使徒の働き 14:5-6

“19ところが、アンテオケとイコニオムからユダヤ人たちが来て、群衆を抱き込み、パウロを石打ちにし、死んだものと思って、町の外に引きずり出した。20しかし、弟子たちがパウロを取り囲んでいると、彼は立ち上がって町に入って行った。その翌日、彼はバルナバとともにデルベに向かった。21彼らはその町で福音を宣べ、多くの人を弟子としてから、ルステラとイコニオムとアンテオケとに引き返して、22弟子たちの心を強め、この信仰にしっかりとどまるように勧め、「私たちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なければならない」と言った。”
使徒の働き 14:19-22

観察:
パウロの第一回宣教旅行。パウロは最初にユダヤ人たちの会堂にて福音を宣べ伝えていた。けれど、多くのユダヤ人たちに拒まれ、反対され、迫害されるようになった。そのため、異邦人たちのいる町々へと、福音を伝えるために旅を続けた。神様が彼らと共にいて、その旅を導いてくださっていた。けれどそれはいつも平坦な道ではなく、多くの困難もあった。使徒の働きの14章後半では追って来たユダヤ人たちに石打ちにされ、町の外へと引きづり出されてしまった。けれど、パウロは生きていて、立ち上がり、町に入って行った。さらっと読み進められないほど衝撃的すぎる…。そしてさらに、もう次の日にはデルベという町へ向かい、その町で福音を宣べ伝えた。そして宣教旅行の始まりの地、アンテオケに戻っては、弟子たちの心を自身の体験を話し、確信しながら、強め、信仰にとどまるよう勧めた。パウロにとって生きる、ということはキリストだった。コリント人への手紙 第一 9:16ではこう言っている。
“16というのは、私が福音を宣べ伝えても、それは私の誇りにはなりません。そのことは、私がどうしても、しなければならないことだからです。もし福音を宣べ伝えなかったなら、私はわざわいだ。”
コリント人への手紙 第一 9:16
パウロにとってのわざわいは、困難や試練自体でも、それに会う人生でもなかった。もし自分が福音を宣べ伝えることのないのなら、自分自身がわざわいだとパウロはった。福音を宣べ伝えることこそが、自分が人生の上でどうしてもしなければいけないことだったからだ。

適用:
僕の人生にも、困難、試練がやってくる。心にも、また体にも痛みを伴う出来事は人生にはやってくる。そうすると自分のフォーカスはその出来事に縛られがちになることがある。でもそれらすらも用いてくださる神様と共に歩み、今日という日に神様からの愛のメッセージ、赦しのメッセージを少しでも届けることができたならば、僕の人生悪くないじゃん、感謝な人生じゃんって思う。痛みがないわけではない。イエス様が福音を届けてくれたとき、多くの痛みと苦しみがあった。その福音を受け取り、委ねられた僕の人生も、痛みがあったから届けられる希望がある。変えられる人生がある。困難、試練がある時こそ、福音を宣べ伝えるために生かされていること、神様から失望に終わることのない希望が自分に注がれていて、その希望が自分がけにとどまらず、周りに届けられていくことを思い起こそう。今日もどうしても生かされている。神様にはどうしてもその愛と赦しを届けたい人がいるのだから。

祈り:
神様、あなたの名前を賛美します!! あなたの御国がきますように!あなたの御心が天で行われるように、僕の人生を通しても行われますように。困難、試練、それら自体が災いではないことを励ましてくださってありがとう!パウロの生きた姿から、またなによりイエス様の姿から、励まされました!あなたがどうしても福音を届けたい人たちの人生に、あなたがどうしても生かしてくださっている僕の人生を通して、あなたの愛と赦しが届けられますように。イエス様のお名前によって祈ります。アーメン

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