No comments yet

「悲しむ者は幸いです!」(信仰、牧師)

“悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。” マタイの福音書 5章4節

“Blessed are those who mourn, for they shall be comforted.” Matthew 5:4

マタイの5章から7章まで有名なイエスの山上の垂訓が書かれている。まず最初にイエス様が言う八人の幸せな人達が出てくる。1、心の貧しい者。2、悲しむ者。3、柔和な者。4、義に飢え渇く者。5、あわれみ深い者。6、心のきよい者。7、平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。8、義のために迫害されている者。どれも世の中的に言ったらあまり幸せとは思えない。でも、神の観点で見る、Kingdom mindで考えることが必要だ。発想の転換が必要と言っても良いだろう。今日、僕の目にとまったのは、「悲しむ者」だ。イエス様は、ここでは、罪に対して悲しむ者に対して語っているようだが全ての悲しみについて言えるだろう。どうして悲しむ者は幸いなのか?イエスは、「神の慰められるから」と言うのだ。神様から受ける慰めはそれほど僕たちの人生において大きな影響があるのだ。

聖書は悲しみに対して決して沈黙していない。人生には悲しみがあること、そして、悲しみの取り扱い方まで教えている。伝道者の書では、「泣くに時があり、笑うに時があり、悲しむに時があり、踊るに時があり」と 僕たちの人生において悲しむシーズンがあることを教えている。パウロは、神の御心に沿った悲しみ方と世的な悲しみ方があると教えている。世的な悲しみ方は死を招くが、神の御心に沿った悲しみ方は悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせると。また、悲しみの中で、神の慰めを受けることによってその人も他の人を慰めることができると教えている。全ての悲しみには意味があり、神の御心に沿って悲しみを取り扱って行くときに、神の慰めを受け、その慰めを持って他の人を慰めることができるのだ。悲しんでいる人は幸いなのだ。

僕は僕の人生の中で、特にこの3年間、悲しみという感情と向き合わざるえなくなっている。愛する父の死。愛する人たちの死。家族の病気。そして、自分の病気。でも、自分の中を探るとき、僕は、悲しみという感情と向き合うのが苦手な自分を発見する。見て見ぬふりをしたり、否定したり、その中で喜ぶことを選んでいる。悲しみの中で喜ぶことを選ぶことは悪いことではないが、悲しい時は、悲しんで良いのだと思わされた。でも、自己憐憫に陥ったり、他の人を責めたりするのではなく、積極的に神の慰めを求め、積極的に悔い改め、積極的に神様の慰めを受けていこうと思った。僕が悲しみの中で、神様から慰めを受ける時、僕がもっともっと痛みがわかり、人を慰めることができる夫、父親、牧師に変えられていくのだから。「悲しむ者は幸いです。その人達は慰められるから。」

「神様、今日もみ言葉を通して僕を励まし、導いて下さってありがとうございます。今日、僕がとおっている数々の試練の中で『悲しんで良いんだよ。』と励ましてくれてありがとうございます。神様、あなたの慰め、励ましを与えて下さい。癒して下さい。そして、僕がもっと人の悲しみをわかり、慰めることができる夫、父親、牧師になれますように。今日もあなたを愛します。あなたに従います。アーメン。」

Post a comment

%d bloggers like this: