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「たとえそうでなくても」(信仰、祈り)

シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴは答えました。「王よ。私たちの身にどんなことが起ころうと、ご心配には及びません。 たとえ燃えさかる炉に投げ込まれても、私たちの神は、私たちを王の手から救い出すことがおできになります。 たとえそうでなくても、ご承知ください。私たちはどんな状況に置かれても、決して王の神々に仕えたり、王の立てた金の像を拝んだりはいたしません。」ダニエル書 3:16-18

シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴの信仰には驚かされる。1、危険が伴っても神だけに従う信仰。2、神は火の中からでも救い出すことができるという信仰。3、たとえ救い出されないとしても神だけを礼拝し、神だけに従う信仰。彼らの信仰は結果に左右されるものではなかった。結果さえも委ねて神だけに従い続ける信仰だ。それは、イエスさまのゲッセマネの園の祈りとも似ている。僕たちの信仰、祈りには2段階あるように思う。1、自分の思うような結果になることを願い、従います。2、たとえそうでなくても、従います。結果を委ね、従い続けることにフォーカスする信仰だ。両方の祈り、信仰は神に受け入れてくださるだろう。でも、2のような信仰を持って祈って行くとき、そのような祈り、信仰には自由が与えられるだろう。そして、そのような信仰を神は喜び、奇跡さえも経験できるのだ。彼らの信仰はバビロンの王を怒らせ、火の強さを7倍にするが、その中で彼らは奇跡を見ることになる。1、燃え盛る火の中で一緒にいてくださる神を経験する。それは、外から見ている人たちにも明白だった。2、火が燃えうつらない奇跡を経験する。3、すべての人が真の神を知る。

今日、僕がインスパイヤーされるのは、彼らの「たとえそうでなくても」と言う信仰だ。僕は、牧師だが、簡単に結果に左右されてしまう。結果を握りしめ、結果に囚われてします。ビジョナリーだということもあるだろう。でも、三人の信仰のように、祈りの結果が自分達の思うようでなかったとしても神に従い通す決意、信仰を祈り求めたいと思う。神様に結果を委ねて従い続けていきたい。今日、僕が結果さえも委ね、神に従い続けるべきことは何だろうか?

「神様、今日もみ言葉を通して僕を励まし、導いて下さってありがとうございます。今日、僕にシャデラク、メシャク、アベデ・ネゴのような強い信仰を下さい。僕には願い、祈り、夢があります。でも、たとえそうでなくても、今日、僕と僕の家族はあなたに仕えます。結果はあなたにお委ねします。今日もあなたを愛します。あなたに従います。アーメン。」

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