No comments yet

根株に残る希望と約束

御言葉:

“1エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。2その上に、主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。3この方は主を恐れることを喜び、その目の見るところによってさばかず、その耳の聞くところによって判決を下さず、”
イザヤ書 11:1-3

観察:

エッサイはユダの家系であり、ダビデの父である。ダビデからソロモンへ、ソロモンからその子孫へと続いていった王家の血筋であるが、その後、切り倒された根株のようになってしまう。根株を見て僕たちはなにを思うだろうか。その太さを見たら、そこにはかつて力強くそびえ立つ木があったのだろう、と知ることができるかもしれない。けれどその根株を見て、そこから、その根株から、再び力強い木がうまれ、多くの実がなり祝福が注がれるのだと、思うことができるだろうか?多くの時、僕たちはそれは終わったものであり、希望がないものなのだと捉える。けれど根株が残されたところには実は衰退した事実とともに、そこには未来への希望も同時にあるのだ。ダビデの家系が切り倒された根株のようになってから、およそ600年後、根株から一つの新芽が生まれた。ダビデの家系を通して、イエス様という希望が飼い葉桶の中で産まれたのである。

適用:

僕たちは自分の見るもの、聞くもの、常識、価値観などさまざまなもので、物事を捉え、その未来を考える。けれど神様の御手が起こされることは僕たちにとって計り知れないほどの恵みであり、愛であり、力である。僕たちの内側に希望がなくなったと感じるものがあるだろうか?自分の建て上げてきたもの、積み上げてきたなにかかもしれない。それは人間関係かもしれない。また自分の周りの人を見た時に、根株に感じられるものを見るかもしれない。でもその根株を過去と比べ、他のものと比べ、希望がないと決めないでいよう。神様はそこから新しい芽を息吹かせ、木へと成長させ、美しく、命にあふれる実をならせることができるのだから。神様のうちに希望がある。たとえまだ新芽を見てなくても大丈夫だ。イスラエルの人々は600年近くもその根株から新芽が出るのだという約束を信じてきた。僕たちにも聖書の御言葉から約束を知り、受け取ることができる。だから今新芽が見えていなくても、神様の約束を信じ、今はそこにそそがれる太陽の光と降り注ぐ雨の恵みを受け取っていこう。「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる方によって、ある日突然根株に息づく新芽を見つけることができるだろう。

祈り:

天のお父さん!今日の1日が与えられていること、とっても感謝!あなたは良い方で、力ある方。忠実で、あなたのなさることは時にかなって美しいです。僕たちの人生には時にいつか木になり、実になると信じていたけれど切り倒され、根株のようになってしまったものがあります。人間関係の中に、将来への計画の中に。また他の人にそれらを見て、これはもうだめだと思ってしまうことがある僕たちです。けれども、僕たちの目に見えるものによらず、あなたに、そしてあなたの約束にこそ信頼します。どうか御言葉を通してあなたの心を我が心とすることができ、あなたの約束を受け取り、それに信頼して歩むことができますように。今日あなたの励ましと希望と約束を必要としている一人一人にあなたからの御言葉と、励ましと、平安を注いでいてください。イエス様のお名前によって祈ります。アーメン

Post a comment

%d bloggers like this: